院長 志村 広草(しむら ひろしげ)

院長プロフ画像

生まれも育ちも江南市。院長の志村広草です。医療系国家資格を取得するための専門学校3年、整形外科、整骨院での5年間、計8年間の修業期間を経て、地元江南市に志村接骨院をオープンしました。

わたしはとても諦めが悪く、負けず嫌いで、しつこい性格です。こんな性格は損だと思っていました。しかし、今はこの性格でよかったと思っています。

このお仕事をさせていただいていると、様々な症状の方に出会いますが、簡単な症状ばかりではありません。どんな症状でも必ず治しますとも言いません。しかし、この諦めの悪い性格を活かして、今までの知識や経験、技術を最大限に発揮し、現状での最善の選択肢を患者様に提案することをお約束します。

もちろん、手に負えるもの、負えないものはあります。ただ、今の症状で、他の病院、接骨院、整体院でなかなか満足のいく結果を得られていない方は、一度、ご相談ください。もしかしたら、こんな選択肢は知らなかった!そうだったのか!と思っていただけるかもしれません。

知らないだけで損する人を減らしたい

例えば、ヘルニアで腰痛があり手術を勧められた方や、股関節付近が痛く、股関節の生まれつきの形状の異常があると診断されて、完治には手術が必要と言われた方、
五十肩と言われてリハビリ専門病院に通っても一向に良くならない方、関節の軟骨がすり減り、注射や痛み止めしか方法は無いと言われていた方々。

そんな方々がほんの数回の施術や対応で噓のように楽になることがあります。これは嘘でも盛った話でもなく実際にあったことです。一体どんな神業を使ったのか?
どんなゴッドハンドの持ち主なのか?いいえ、違います。

腰椎にヘルニアがある方の腰痛がヘルニア由来とは限りません。股関節の形成不全がある方の股関節痛が必ずしも股関節由来とは限りません。
その五十肩が本当にただの五十肩とは限りません。軟骨のすり減りの対応は注射だけではありません。

要するに、画像所見(レントゲンなどの所見)と臨床所見(押さえると痛い、動かすと痛い、歩くと痛い等)は一致しないことがあります。

そして僕はただ、盲点となるような、よく考えてみたら当たり前ともいえるような選択肢を知っていただけなのです。
そしてより多くの方が当院を知っていただき、皆様の人生がより良いものになることを強く望みます。

資格

  • 柔道整復師(医療系国家資格)
  • 動きケアⓇパーソナルトレーナー
  • Formthotics Authorized Medical Adviser
  • 運動器リハビリテーションセラピスト

経歴

  • 60年以上の伝統がある学校にて確かな基礎を身につける
  • 柔道整復師免許 取得
  • 卒業後は一日300名以上来院される整形外科にて、様々な症例を経験
  • 医師も出席する学会で凍結肩に対する徒手療法についての論文発表
  • 志村接骨院 開院
  • 開業後もさらなる成長の為、勉強会やセミナーに精力的に参加

院長の生い立ち

院長のが赤ちゃんの時代の写真で姉と母と映っている

こんにちは!志村広草です!
ここでは私がどのように育ち、どのような経緯で志村接骨院をオープンさせ、現在に至ったかを、お話しさせていただきます!

ちなみに左下の赤ちゃんが僕です。右の女の子は私の姉です。上の女性は母です。

泣き虫でおじいちゃん子だった幼少期

院長に幼少期に笑顔で走っている

2つ上の姉がいる僕は、お姉ちゃんが大好きで、ついて回っていたそうです。母と一緒に姉の幼稚園バスのお見送りに行くと、自分もバスに乗れると勘違いして、毎日泣いていたそうな。

そんな泣き虫な私は、大のおじいちゃん子でした。いつもおじいちゃんのひざ元で、「となりのトトロ」のビデオを、ヘビロテしていたそうです。

このころから、くどくてしつこい性格は変わらないようですね。

小学校時代

少年野球チームの集合写真
院長が少年野球で野球の試合中、守備を行っている
院長が少年サッカーの試合中

小学校2年生からスポーツ少年団に入ります。このころから野球少年なら誰もが一度は夢見る、「プロ野球選手になりたい!」と思うようになりました。

土日は毎週一日中練習。暑い日も寒い日も、雨の日も練習はありました。最高の仲間に出会い、かけがえのない、濃い時間を過ごしました。

実はこの時すでに、痛いところがあれば近所の接骨院にお世話になっていて、「ここにこれば安心」と子供ながら、感じたのを覚えています。

ちなみに今でも、この時の仲間と草野球チームを作り、日曜日には野球やゴルフに行きます。この時代は仲間の大切さを学ばせていただきました。

中学時代

院長が中学野球の試合後の整列中
院長がマラソン大会で走っている

小学生時代に引き続き、プロ野球選手になりたい!と思っていた志村少年は、迷わず野球部に入部希望を出します。

小学生の頃は、どちらかというと控えめな性格で、あまり率先して前に出るタイプではありませんでした。

その為、このタイミングで、「自分を変えたい!」と思うようになり、勢いもありましたが、なんと野球部のキャプテンに立候補しました。

入部したてのメンバーは僕の野球の実力を知る由もなく、当時はガタイも良い方だったのもあり?なぜかそのまま野球部の1年生の中の代表になってしまいました。(のちのキャプテン)

正直、当時の野球の実力は今思えば、チームの中で中の下。そして今まで控えめで、リーダーに程遠いキャラクターだった志村少年は、やはりキャプテンという役割に苦戦します。

僕らの代は、個々の実力を見れば県大会でも戦えるレベルと言われていました。しかしキャプテンである僕の力不足や、我の強いメンバーが集まったのもあり、なかなか意見や方針もまとまりませんでした。

みんな口を開けば、喧嘩、喧嘩、喧嘩、、、。それだけみんな本気だったんですね。

そのまま野球部のキャプテンとして大した結果も残せず、中学野球生活を終えました。

三年生になると本格的に進路を考えるようになります。そしてその頃には薄々と気づいていたことがありました。

「流石にプロ野球選手なんて無理だな」そしてさらに思ったことがあります。「野球よりも陸上の方が結果を残して将来につながりそうだ」

当時、僕の中学校では、駅伝部というものがありました。これは、常に活動する部活ではなく、年に数回ある駅伝大会の時だけ発足されるものでした。要するに各部活動の中から、実力のある子を集めて作られるのです。

実は、志村少年は駅伝部のAチームのレギュラーとなり、尾張の駅伝大会で区間新記録を出すなど、意外と頑張っていました。

そして中学3年の夏、人生を大きく変える転機が訪れます。顧問の先生の顔の広さもあいまって、なんと愛知県の中で当時、圧倒的強さを誇っていた豊川工業高校陸上部が主催する、合同合宿に参加することが出来たのです。

その合宿のきつさは今でも覚えているくらい、当時の自分にはハードなものでした。合宿では、トレーナーの方が来てくれて、ケアをしてくれる機会があり、合宿所の廊下に並んでいたところ、、、覇王色の覇気をまとった人物がこちらに近づいてきました。(ワンピースを知らない方はすみません)

そうです。愛知県最強を誇る、当合宿主催、豊川工業高校陸上部監督、渡邊先生です。

先生は、たまたま最後尾に並んでいた志村少年を見つけると声を掛けました。出身校の話や、ベストタイムの話を聞かれたりしました。そして、「あの学校の子か。結構頑張ってるようだね。」自分の学校のことを、認識してくださっていることが嬉しかったのを覚えています。

「うちにくるか?」最強陸上部監督からの突然のお誘い。もしかしたら、今思えば深い意味はなかったのかもしれません。しかし、当時の志村少年の気持ちを奮い立たせるのには十分すぎる出来事でした。

全国高校駅伝に出場するんだ!そして大学でも箱根駅伝に出場してやる!という野望をいだき、豊川工業高校に進学を決めました。

豊川工業高校時代

高校入学後は江南市から豊川までは通えないため、陸上部の寮に入り、寮生は9人いました。寮から学校までは片道18kmで、自転車で通学することになりました。自転車通学中は寮生メンバー9人でしっかり1列に並んで猛スピードで自転車をこぎます。

18kmの道のりを遅くとも40分ほどで学校に到着していたのを覚えています。この時、先頭で走る人を1,2年生の中で当番で回していました。先頭で引っ張る人の自転車のペースや、どの道を選ぶかによって5~10分程、到着時間が変わってきます。それによって、よく先輩から怒られていたのを覚えています。

もちろん朝練があるので、朝の5分は本当に大きかったです。学校につくと、駐輪場に自転車を置き、走って部室に向かいます。リュックをしょったままです。移動はかけあしというルールが部内にあったのです。

18kmの道のりを猛スピードで漕いできているので、入学当初はその時点ですでにバテテいました。部室で着替えて朝練に行きます。朝練ではまず二人一組を組み、グランドの端と端に立ち、お互いに直近の大会の目標を叫び合います。そうしたら、その目標を達成するために本日の練習で何を意識して行うかを叫びます。お互いに相手の声がしっかり聞こえたら、両手で〇を作ります。

その後、懸垂逆上がりを10回。出来ない場合は、できるまでやります。できるまでその日はその後の練習には参加させてもらえません。1年生は大体ここでつまづきます。

はじめはほとんどの1年生が懸垂逆上がり10回ができず、鉄棒の周りにうろたえていました。今思えば、初回にできないのに、筋肉疲労が起こった状態でもう一度行って、出来るようになる訳がないのですが、そんなことは通用しません。

数週間経つと、徐々に1年生でも10回できるようになってきて、やっと練習に参加する人が増えてきます。そこで最後まで残る人間は初めの”ターゲット”になります。

できないことをできないままにする奴は、練習など参加する権利はない。そういう暗黙の了解がありました。初めは1年生同士、比較的仲が良かったと思っていましたが、徐々にお互いがお互いを監視し、牽制し合うようになったように感じました。

そうして始まった、怒涛の強豪陸上部生活。今でも朝、部室まで走って移動する夢を見る時があります。大人になってから同級生の陸上部の子に聞いたら、同じような夢を見ると言っていました。

それからはとにかく無我夢中で食らいつこうと、毎日必死でした。授業が終わり夕練が終わって、また18㎞の道のりを自転車で帰ります。ご飯の準備の当番がある人は、何が何でも1番に帰らなければなりません。もちろん寄り道する暇なんてありません。そうして寮に帰宅し、まずは2グループに分かれてお風呂に入ります。

先輩方と入る為、ここでも全く気が抜けるタイミングはありません。(というか帰省するとき以外、気が休まるときは一度もありませんでした)

むしろ、緊張感がなくなるときというと、怖い先輩がいない空間。そう、授業中です。授業中は、全く緊張感なく、最もリラックスしていたかもしれません。そうするとどうなるかというと、、、

ぐっすり寝ていました。もちろん全ての授業で居眠りしていた訳ではありません。しかし、半分くらいは寝ていたと思います。余り信じてもらえないかもしれませんが、居眠りしても、ほとんど注意されたことがありません。それだけ隠れるのが上手かったのか。違います。陸上部はなぜか、先生方も注意してこなかったんです。

今思えば、おかしい話ですが、先生方も陸上部に気を使っていたんだと思います。陸上部に気を使っていたのか、陸上部監督に気を使っていたのか。どちらなのかはわかりませんが、事実として、一回も注意はされませんでした。ほかのメンバーも一緒です。

そして授業を授業とも思わない、陸上中心の生活がしばらく続きます。今思えばもう少しちゃんと工業系の勉強をしておけばよかったと思っています。

月日がたち2年生の夏休みを終えたころ、厳しい合同合宿の数々をBチームのチームリーダーとして乗り越えました。夏休みのほとんどを長野県の山で過ごしました。初めてBチームの練習を全てやり切り、少しずつ手応えを感じてきたタイミングでした。

練習メニューはABCチームに分かれておりAチームが一番厳しい練習内容になっています。もちろんAチームの中からレギュラーが選ばれます。そして人生初の5000m走の記録会での走りを、あの渡邊先生から始めて褒めていただくなど、本当に流れが来ている、と感じていました。

そんな9月のオフのある日曜日の朝、ある出来事をきっかけに、人生の方向性が大きく変わります。

いつものように、朝の自主練で40分程ジョグを行い、少し歩いて息を整え、トイレの為にコンビニに寄りました。そこにはなんと大好きなワンピースの最新巻が置いてありました。すぐさまそれを手に取り、おもむろに立ち読みを始めてしまいました。

少しだけ中身を確認するつもりが確実に10分は読んでいました。その時です。いきなり「バンっ!!」と鳴るはずのない大きな音が正面のガラスから聞こえました。びっくりして前を向くと、そこには鬼の形相をした、あの、渡邊先生がこちらを睨みつけています。

一瞬で、頭の中が真っ白になりました。何も考えられないまま、体は無意識にコンビニの外に向かいます。そして条件反射的に「申し訳ありませんでした!!」と土下座する勢いで深く頭を下げます。

「これから帰ったら荷物をまとめて、親に連絡を入れとけ。家族と話して、部活を辞める方向で話し合っておけ。これから自宅から通うことになるからそう伝えとけ。な?わかったか?」

もうパニックを通り越して、何も言葉が出ませんでした。かろうじて言えたのが、「はい。」という言葉のみです。そして先生はいつものハイエースに乗り込み、その場を一瞬で去っていきました。

コンビニの駐車場にポツンと残された僕は、それからどれくらい動けなかったのか、記憶にありません。それからもちろん僕が「ターゲット」になり、練習に参加させてもらえなくなりました。

時々考える時があります。自分の何がいけなかったのか。あの時、「練習はちゃんとしたんです。ただトイレに寄ろうとしただけなんです!」と伝えていたら良かったのか。はたまた、そんなことは関係なく、立ち読みしていたことがいけなかったのか。

それからグランドの草取り生活が始まります。先生の視界に入ると、どっか行けと言われるので、学校の外周の草を取り始めます。気が付くと一周してしまい、もう取る草が無くなってしまいました。

そこから3か月ほどその生活が続きます。もちろんその間に、他の部員の練習が終わってから、自主練をしまして体力をつなぎ、何度も練習に参加させてくださいと言いに行きました。その度に「お前はチームの癌だ。癌細胞は取り除かないとどんどん増えてくる。いつ辞めてくれるんだ?」

副顧問にも相談に行きますが、結果は変わりません。この時、何かを試されていたのか。それとも本当にただ僕が辞めると言いに来るのを待っていたのか。今でも真相はわかりません。

そんな生活が数か月続く頃になると、段々と、何の為に学校に来ているのか。何のために草をとるのか。何のために自主練をするのか。何のために罵倒されるのか。自分は何がしたいのか。パニックになって頭がおかしくなっていました。

クラスの一般生徒が売店で菓子パンを買い、友達と笑顔で楽しそうに昨日のテレビ番組の話をしている。陸上部は売店の使用はもちろん禁止で、寮生はテレビもありませんでしたし、陸上部同士も学校で楽しそうに話すことなんてほとんどありませんでした。練習の時間も草取りのみ。何のために学校に来ているのか。「いいなぁ」そんな光景を見ていると、今まで我慢していた感情の糸が、ぷつんと切れた気がしました。

「そうだ。部活辞めよ。」

初めての挫折でした。もっと他にやり方があったのかもしれませんが、当時の僕には見つけられませんでした。そして渡邊先生のいる体育教官室に向かいます。止められることなんてあり得ないと初めから分かっていました。案の定、最後の言葉は「やっと辞めてくれるか。ありがとうな」でした。

そして、辛い状況から逃げ出した僕は他の陸上部員達との交流もほとんど無くなり、次第に他のクラスメイトとつるむようになります。部活を辞めた僕は、陸上部の練習を見かけると、自分だけ楽な道に逃げてしまったという、罪悪感で胸が締め付けられました。

それからは高校生の”普通の”日常を送りました。授業が終わると、クラスメイトとボーリングに行き、ゲーセンで景品を取り、カラオケやカードゲームショップにも行きました。うしろめたさを感じながらも、その瞬間瞬間は本当に楽しかったのを覚えています。

刑務所に入ったことはもちろんありませんが、刑務所から出所したような感覚でした。そして、部活一色とは正反対の、もう一つの青春時代を過ごした僕は、ついに進路を考える時期を迎えます。

高校で全国大会に出場し、大学で箱根駅伝に出場するんだという目標は、もちろん既にありませんでした。辛い状況から逃げ出した僕は、今後どうなっていくのか。高校三年生になり、次第に将来について考えるようになります。

一人でいる時、部活を辞める前のことを考えると、先輩や監督に怒られたり殴られたり、自分に自信が持てない記憶ばかり思い出されます。そんな時、唯一自分にとって自信を持てるような出来事を思い出しました。

陸上部では、二人一組を組み、お互いにマッサージやストレッチでケアする時間がありました。昔から親の肩もみをするのが好きだった僕は、この時間が好きでした。そしてありがたいことに僕のマッサージが受けたいというチームメイトが多かったです。

自分で言うのもなんですが、マッサージだけは、評判がよかったんです。そしてチームのエースの先輩は当時、同じ寮生で、試合の前日は必ず僕のマッサージを受けたい、とのことで専属トレーナーのような関係になっていました。

その先輩は二つ上で、当時3年生であり、高校最後の全国駅伝へとつながる、県駅伝の前日も僕にケアを頼みました。22時の消灯後、寝る前に床にヨガマットを引き、いつものようにマッサージを行いました。

どこで知ったのか覚えていませんが、レースの直前はマッサージで脚の筋肉を緩めすぎると、地面反力を受けにくくなり、スピードが落ちると聞いたことがあり、体幹の筋肉であれば、緩めても大丈夫という認識があったので、体幹を中心に丹精を込めて緩めました。

そして翌日、先輩はなんと見事区間1位でたすきをつなぎ、さらに大会新記録を樹立しました。試合の日の夜、先輩から、「お前のおかげで体がすごく軽かった。ありがとうな」いつもの怖い先輩からのお褒めの言葉。初めてだったので強烈な成功体験として脳裏に焼き付きました。

そんな成功体験を思い出し、そこで初めて「自分はサポートする側の方が向いてるんだ!そうだ、接骨院を開いたら、いろんな方のサポートができる!接骨院を開こう!」選手時代、自分自身も故障したときにはいつも接骨院で治してもらってました。だから真っ先に思い浮かんだんだと思います。

もしかしたら、辛い練習を耐えている元チームメイト達の頑張りを横目にいつも、うしろめたさを感じていた自分は、新しい目標を掲げることで部活を辞めた自分をどうにか正当化したかったのかもしれません。

それから接骨院を開業するためには柔道整復師という医療系国家資格が必要であることを知り、その資格を取得できる専門学校が愛知県に沢山あることを知りました。どこに行けばいいか分からなかった為、片っ端からオープンキャンパスに行きまくったのを覚えています。

色々な学校を見に行く上で、色んな強みを紹介していて、初めは全く決まりませんでした。ある学校のオープンキャンパスに行くまでは。そうです、わが母校の米田柔整専門学校です。米田に訪れた際、他の学校との「圧倒的な違い」を感じました。

どの学校でも、言われることは大体一緒で、「こんな設備があります」「こんなかっこいい白衣です」「こんなキラキラなキャンパスライフがあなたを待っています」という感じでした。

米田は違いました。「中途半端な覚悟の方はうちには来ないでください。正直うちは厳しいです。楽に資格だけ取りたいなら、他に行った方がいいです」本気でそう言われました。その時、僕は「ここだ」と思い、米田への進学を決めました。

時は流れ、卒業式の日。担任の先生からこう言われます。「最後の最後くらい、渡邊先生に報告に行きなさい。それがお世話になった人への務めです」まさか。今更”あの”渡邊先生に挨拶に行けだなんて、なんて酷なことを言うのか。

しかし担任の先生には3年間本当にお世話になっており、大変恩を感じていました。意を決し、最後の特攻へと向かいました。部活を辞めることを伝えに行った以来の、あの体育教官室へ。

心臓がバクバクと高鳴るのを感じながら、先生を呼びました。「最後にご報告に参りました」そこで接骨院を開きたいという目標の話や、その為に専門学校に進学することを話しました。

「お前にはそういう仕事は向いてないんじゃないか?お前は人と関わるような仕事はやめておけ。そうだなぁ。お前はもっと単純な作業を一人で永遠と繰り返すような仕事の方が向いてるぞ、絶対。話はそれだけか?」

最後の最後まで、先生はある意味一貫していました。僕はその時、悔し涙をこらえながら「絶対に見返してやる。絶対に先生よりもビッグな人間になってやる」という反骨心と、より一層、接骨院を開業して成功させるという思いが強まりました。

米田柔整専門学校時代

専門学校では、国家資格に受かるための勉強ではなく、柔道整復師としてしっかり通用する人材を育てるためのカリキュラムを受けました。実習や実技に力を入れており、何度臨床でこの時の経験に助けられたことか。

また、米田には柔道部があり、初めは飲み会が沢山あって楽しそうだと聞いて、軽い気持ちで入りました。高校のこともあったのであんまり本気でスポーツをするつもりもありませんでしたが、徐々にちゃんとした部活なんだと気が付きました。なんと監督はあの強豪、明治大学柔道部卒業の先生でした。

今までやってきたスポーツと全く違う競技で、厳しくもめちゃくちゃ楽しかったです。そして先生方も厳しいときは厳しく、楽しいときは楽しく接してくださりとても信頼でき、今でも時々OB練習会に参加させていただいた際には、お世話になっています。

おそらく人生で最も勉強した三年間でした。そのかいもあり、無事国家資格に合格し、卒業します。卒業旅行の北海道旅行の前日に謎の高熱に見舞われ、当日キャンセルしたことは、今では良い思い出です。

修業期

専門卒業後は一日300人以上来院される整形外科に就職し、様々な症例をみさせていただき、とても貴重な経験をさせていただきました。特に他の病院との違いは、院長先生とのタッグを組んで働かせていただく一診業務です。

一診業務は、院長の診察業務につきっきりになり、様々な補助を行う業務で、ドクターの右腕として診察を一部始終見させていただきました。臨床経験豊富な敏腕ドクターが診察でどんな流れで何を見て何を考え、どんな処置をするのか。どんな症状は要注意で、どんな患者は大きい病院に紹介状を出すのか。

開業してから、何度一診業務の時の記憶が役に立ったのか分かりません。またとても勉強熱心な病院で、月に一度の勉強会。週に一度のカンファレンス。勉強会では症例報告や症例検討会も行い、その症例に対してどんな治療方針でどんな対応をするべきかを議論します。

人によっては大変と感じたかもしれませんが、早く成長したいと思っていた僕にとっては、最高の環境でした。特に4年目で経験させていただいた、学会発表では凍結肩と言われる、五十肩の悪化した状態の症例に対して、どんな徒手療法が最も効果が高いのかを発表させていただきました。

そして着実に実力を付け、5年の修業を積み、予定通り開業準備に入ります。月曜日から土曜日まで働き、日曜日に準備やセミナーに通ったのが懐かしいです。

そして現在

紆余曲折ありましたが、予定通り5年の修業を終え、念願の志村接骨院をR3年5月に開業しました。これまで育てていただいた地元江南市に自分の接骨院を開業することができて、感無量でした。もちろん開業してからも決して楽なことばかりではありませんでしたが何とか乗り越え、今では多くの患者様のお力になれています。

そしてようやく人をサポートする、という高校生の頃の目標が達成できたんだと、実感できました。志村接骨院を開いて本当に良かったと思います。これはひとえに江南市の皆様や応援してくださった仲間、家族の支えがあってこそです。本当にありがとうございます。

そして、地域の皆様の健康と笑顔を増やすお手伝いをさせていただくことで、恩返しをして参りたいと考えております。今後もどうぞよろしくお願いいたします。

受付 志村惠子
(しむらけいこ)

経歴等

愛知県江南市で生まれました。大学を金沢で過ごし、就職は大阪。結婚、出産を機に地元愛知県江南市に戻りました。

趣味は美術、デザイン、音楽鑑賞、畑、庭の手入れ、スポーツ(バレーボール)です。

資格

  • 公益財団法人 日本スポーツ協会 公認指導者 バレーボールコーチ
  • 愛知県ママさんバレーボール連盟 尾張支部 公認審判員

メッセージ

こんにちは!受付スタッフの志村惠子です。名前を見て分かる通り、院長の母です。

院長の『これ』というものが見つかったときの集中力は、目覚ましいものがありました。きっとその集中力と探究心が今に繋がっているのだと想います。

志村接骨院は、一人ひとりの患者様に本当の意味で向き合うことのできる数少ない接骨院だと思っております。しっかりと患者様の声をお聞きし、それぞれの患者様にその人にだけのオンリーワンの施術をおこないます。

バレーボーラーとして活動してきたスポーツで培った元気と自分が学んできたデザインセンスで、院内をより居心地の良い、患者様が「ホッ」とできる空間になるよう日々頑張っていきたいと思います。